と、ぼやくと、年配の方に「何いってんの! まだまだ若いわよ! ガンガン働けるじゃない!」と言われて(アンタは俺の何を知ってるんだ? フン!と思いながらも)「そうですかね~?」と差し障りのない相槌を打ちながら言葉って難しいな、と感じるマサムネです。
タイトルも本当は「若いときの僕と比べて20才年を取ったのだから回復力が落ちたよな~!」とすればいいのだけど、つい、お姉様方のそういう会話に参加したくて「いや~ワタシも年取りましたあ!」と言うと地雷を踏んでいないかヒヤヒヤします。
まず、怪我しやすくなった。
それも、すっ転んだ、とか足をぶつけたとかそういうそのバの怪我ではなく、「蓄積疲労で」いつの間にか特定の部位を痛めてる事が多くなった(笑)
某ドラッグストアに居た頃、半期に一度のセールが終わり、2週間位経過すると、決まってコシガ抜けていた(笑)
同じように仕事をして抜ける人と抜けない人がいるのでおそらく「労災」にはならないのだと思うし、アルバイトごときに治療費を出すほど従業員に優しい企業ではなかったのだと思う。
最初は一ヶ月後、三週間、2週間と特売セールが終わってすぐと僕のポンコツの腰はすぐに悲鳴を上げるようになった。
僕は一旦退職して腰を治すのに専念したのだけど、その後、当時の店長が僕が辞めてすぐに腰を抜かした(痛めた)のを人づてに聞いて「ざまあみろ、大変なんだよ!」と思った。
まあ、それでも僕はそこで手にする僅かなお金でなんとか家計の足しにして生きることができた。
多分、小学一年だった子供が受験に臨むその年度の冬まで働いていたと思う。
段々と居心地が悪くなり、同様に中学受験をした同僚の方も向こう側に周り、僕をこき使いたい意図が見えたので週2日の約束で働いていたのだけど2度目の退職をした。
その時はすでに僕も再雇用した店長も店をさり、同期の人も二三人くらいしか居なかったと思う。
要は時代が変わりつつあったのだ。
下の子がすぐに受験の準備になるし、またその事でやっかまれても困るのでさっさとその場を去った。
で、その時以来痛めた腰は年々どうでもいい作業や、米の袋の持ち運びくらいで抜ける(ぎっくり腰)ようになってしまった。
某スーパーの前の横断歩道を歩いていて轢かれた右足も季節の変わり目や台風が近づいてくると痛い。
僕を轢いた人は75歳で横断歩道を歩いている私が見えなかったと。
とまれの道路標示も横断歩道もとっくに消えていてそこで一時停止をするひとは少ない。
あぶないなあと思いながらも夜、そこを通るときは懐中電灯をわざとおおきく振りながら自己防衛して歩く。
僕は小学2年、18才、30代で骨を折っている。
残念なことに30代で折った所は今でも痛い。
整形外科医はもう治らないと言った。(やぶだ)
この程度の骨折で手術して治すことはできない、と。
で、今回の腰痛について思い出す。
ああ、あれかな?と思うことはある。
けど、少なくとも去年まではそんなことはなかった。
それと同時に体重が増えやすく、減りにくくなった。
ちょっとしたことで「イラっ!」としなくなった代わりに「やるぞおお!」という気持ちも減った気がする。
全部を「老化」で片付けるには本当に老化ど真ん中にいらっしゃる方々に申し訳ない。
先人たちが言うようにまだまだ働けるのかもしれない(少なくともプールで僕を見る限り健康そうに見えるのだろう)
実は最初、腰痛ではなくて別の病気か何かと思った(勘違い)
右の背中の肋骨の下から脇腹、腰にかけてなんとなく痛かったので。
けど、数日経過してそれが膵臓や胃腸の病気じゃなくて、勿論腎臓の病気でもなくてただのぎっくり腰だと気づいた。
プールではそんな健康そうな膵臓がんの人はいないわあ、アハハハハと言われたけど。
でも、膵臓がんだと100万しか金が出ないらしい(笑)
手遅れだと言われてから一年くらいは生きられるらしいけど、100万だと新型ジムニーを新車で買えないし、納車する前に死んでしまうかも知れない(笑)
貰わぬガン保険の皮算用?
月々金払ってるのに治療費で100万しかでねえのか! しょぼい保険だな!と思った(笑)
金は要らないから新型ジムニーを即納で欲しい!
もしくは11月に出るらしいDN-TRECを速攻で欲しい!
年の話からなんだかもし、余命が一年で貰ったガン保険を何に使うか?というどうでもいい話になってしまった。
でも、癌でなくても、喘息が出たときは「このまま死んじゃうかな?」と思うことが多々としてある。
誰も、(プールで会う人は)僕の発作を見たことはない。
笑いながら「頭の中とか気管支とか見えないところが弱いんですよ~ハハハハハ」という。
そういえば、小さい頃、肺炎になって「もう手遅れです」と言われたことがあったらしい。
両親にしてみたらその子供がこの年まで生きて畑を手伝ったり、塀や屋根を直してくれると思っても見なかっただろうけど、僕はその時の記憶がないのでさっぱりである。
何度も書いてるけど、死んでしまうその時まで我々は生きる。
ここを今読んでる人の殆どが100年もしたらこの世には居ない。
DNのサーバーが残っていれば文字は残るかも知れない。
可能であれば寝返りをうっても痛い腰を抱えて生きるより、そんなものは関係ない頑健な肉体があればいいなと思う。
けど、若くて丈夫な肉体を望むその事がおそらく一番僕が老化した証拠なのだと思ったりもする。
タイトルも本当は「若いときの僕と比べて20才年を取ったのだから回復力が落ちたよな~!」とすればいいのだけど、つい、お姉様方のそういう会話に参加したくて「いや~ワタシも年取りましたあ!」と言うと地雷を踏んでいないかヒヤヒヤします。
まず、怪我しやすくなった。
それも、すっ転んだ、とか足をぶつけたとかそういうそのバの怪我ではなく、「蓄積疲労で」いつの間にか特定の部位を痛めてる事が多くなった(笑)
某ドラッグストアに居た頃、半期に一度のセールが終わり、2週間位経過すると、決まってコシガ抜けていた(笑)
同じように仕事をして抜ける人と抜けない人がいるのでおそらく「労災」にはならないのだと思うし、アルバイトごときに治療費を出すほど従業員に優しい企業ではなかったのだと思う。
最初は一ヶ月後、三週間、2週間と特売セールが終わってすぐと僕のポンコツの腰はすぐに悲鳴を上げるようになった。
僕は一旦退職して腰を治すのに専念したのだけど、その後、当時の店長が僕が辞めてすぐに腰を抜かした(痛めた)のを人づてに聞いて「ざまあみろ、大変なんだよ!」と思った。
まあ、それでも僕はそこで手にする僅かなお金でなんとか家計の足しにして生きることができた。
多分、小学一年だった子供が受験に臨むその年度の冬まで働いていたと思う。
段々と居心地が悪くなり、同様に中学受験をした同僚の方も向こう側に周り、僕をこき使いたい意図が見えたので週2日の約束で働いていたのだけど2度目の退職をした。
その時はすでに僕も再雇用した店長も店をさり、同期の人も二三人くらいしか居なかったと思う。
要は時代が変わりつつあったのだ。
下の子がすぐに受験の準備になるし、またその事でやっかまれても困るのでさっさとその場を去った。
で、その時以来痛めた腰は年々どうでもいい作業や、米の袋の持ち運びくらいで抜ける(ぎっくり腰)ようになってしまった。
某スーパーの前の横断歩道を歩いていて轢かれた右足も季節の変わり目や台風が近づいてくると痛い。
僕を轢いた人は75歳で横断歩道を歩いている私が見えなかったと。
とまれの道路標示も横断歩道もとっくに消えていてそこで一時停止をするひとは少ない。
あぶないなあと思いながらも夜、そこを通るときは懐中電灯をわざとおおきく振りながら自己防衛して歩く。
僕は小学2年、18才、30代で骨を折っている。
残念なことに30代で折った所は今でも痛い。
整形外科医はもう治らないと言った。(やぶだ)
この程度の骨折で手術して治すことはできない、と。
で、今回の腰痛について思い出す。
ああ、あれかな?と思うことはある。
けど、少なくとも去年まではそんなことはなかった。
それと同時に体重が増えやすく、減りにくくなった。
ちょっとしたことで「イラっ!」としなくなった代わりに「やるぞおお!」という気持ちも減った気がする。
全部を「老化」で片付けるには本当に老化ど真ん中にいらっしゃる方々に申し訳ない。
先人たちが言うようにまだまだ働けるのかもしれない(少なくともプールで僕を見る限り健康そうに見えるのだろう)
実は最初、腰痛ではなくて別の病気か何かと思った(勘違い)
右の背中の肋骨の下から脇腹、腰にかけてなんとなく痛かったので。
けど、数日経過してそれが膵臓や胃腸の病気じゃなくて、勿論腎臓の病気でもなくてただのぎっくり腰だと気づいた。
プールではそんな健康そうな膵臓がんの人はいないわあ、アハハハハと言われたけど。
でも、膵臓がんだと100万しか金が出ないらしい(笑)
手遅れだと言われてから一年くらいは生きられるらしいけど、100万だと新型ジムニーを新車で買えないし、納車する前に死んでしまうかも知れない(笑)
貰わぬガン保険の皮算用?
月々金払ってるのに治療費で100万しかでねえのか! しょぼい保険だな!と思った(笑)
金は要らないから新型ジムニーを即納で欲しい!
もしくは11月に出るらしいDN-TRECを速攻で欲しい!
年の話からなんだかもし、余命が一年で貰ったガン保険を何に使うか?というどうでもいい話になってしまった。
でも、癌でなくても、喘息が出たときは「このまま死んじゃうかな?」と思うことが多々としてある。
誰も、(プールで会う人は)僕の発作を見たことはない。
笑いながら「頭の中とか気管支とか見えないところが弱いんですよ~ハハハハハ」という。
そういえば、小さい頃、肺炎になって「もう手遅れです」と言われたことがあったらしい。
両親にしてみたらその子供がこの年まで生きて畑を手伝ったり、塀や屋根を直してくれると思っても見なかっただろうけど、僕はその時の記憶がないのでさっぱりである。
何度も書いてるけど、死んでしまうその時まで我々は生きる。
ここを今読んでる人の殆どが100年もしたらこの世には居ない。
DNのサーバーが残っていれば文字は残るかも知れない。
可能であれば寝返りをうっても痛い腰を抱えて生きるより、そんなものは関係ない頑健な肉体があればいいなと思う。
けど、若くて丈夫な肉体を望むその事がおそらく一番僕が老化した証拠なのだと思ったりもする。
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