人は(生き物)三回死ぬという。

1度目はその生命活動の停止。

2度目はその生命と直接触れ合っているのに誰もその生命について語らなくなった時(記憶の中の死)

3度目は、口伝でその死んでしまった生命について誰も何も語らなくなったとき。

つまり、三回目の死を迎えた時、現世に、その人のナマの情報を見聞きした人が全く居なくなってしまうということ。

うちの近くに立川飛行場から飛び立った戦闘機が墜落して、搭乗員が死んだ、という碑がある。

多分、訓練飛行中に死んだので特進してると思うけど、そのへんは読み下していない。

僕は割と死んだ命(人も、猫も、その他の命を問わず)の話をする。

あの世があったとして、自分の話がこの世はされないというのは死んでも死にきれないような気がする。

特に、若くして何もなし得ず、旅立っていってしまった命に関しては言うに及ばない。

僕はそんな中、歳を重ねても未だなにもなし得ていないけど・・・・・(滝汗)

で、必ず、死んだ人の話を思い出して口に出すようにしている。

僕らが口に出し、子供らが聞いていれば、あと5-60年は死なない(三度目)

本当は、皆が祖先の墓に毎年墓参りして、年に1度くらいはこの人はね?という話を伝えればいいのだろうけど。

ダイアリーノートが潰れない限り、僕が彼らを書いたことによってかろうじて三度目の死はない。(と思う)

命には一応限りがあるけど、口伝は無限(一応)なのだ。

形だけ供養されて日常会話にも出ない命より、供養なんかそっちのけで生きてるときの武勇伝を毎日のようにされてあの世でくしゃみが止まらないような余生を送りたいものだ。

コメント

ヒコヒコ
2019年9月5日10:11

三回の死。
深い言葉ですね。
私もそう思います。
亡くなったものを誰も語らなくなった時、いや、誰の記憶からも消えてしまった時、それが本当の死になるのでしょう。
逆に言えば、誰かの心の中にある限りは生き続けている訳ですから、遺されたものは語り続けていくことが大切でしょう。
私も毎月墓参りに行きますし、子供たちが知らない曾祖父たちの話もよく聞かせています。
それにしても、確かに生きていたのに、その跡さえ消えてしまった人たちは、どれほどいるのでしょうか。
星になってしまって、星の数ほどという言葉が出来たのかもしれません。

まるこ
2019年9月5日17:02

ヒコヒコさんが全て代弁なさって下さいました。人の死の在り方。私もそう思います。マサムネさんは伝えられるお子さんがいますもの。きっと代々受け継がれますよ。私達夫婦はだだ消えるのみ。それもまた良しです。「生きているうち、働けるうち、日の暮れぬうち」実家のトイレの相田みつをの日めくり。たまにしか行かなくなった昨今ですが、時々ドキッとする事が書いてあります。

マサムネ
2019年9月6日8:58

ヒコヒコさん

若いときは「ふん! 墓参りなんて行ってられっか!」とほとんどいかなかったのですが、自分の祖父母が私が故郷を離れて他界したのを知った辺りから、両親が自分たちの墓を買った辺りから祖先のありがたみがじわじわと感じるようになりました。と、同時に段々とまわりで昨日まで生きていた人が亡くなったりするのを見て、思い出すようにしました。 星になってしまったのか、けど、空へ旅立ってあの光り輝く星になったのならよかったかな?と僕も感じます。

マサムネ
2019年9月6日9:03

まるこさん

大丈夫ですよ、直接血がつながっていなくても人というのは妙な縁でその人のことを忘れないものです。(逆に他人のほうが親身に思っていたりする)というか、まるこさんはまだまだ先でしょう? 昨晩バイクのフロントブレーキ辺りから音がしたのですが、明日の朝見てみようと昨日はそのままにしました。 まさに日の暮れぬうちですね。ブレーキパッドは減っていたので新しいのを密林で注文しました。しかし、死んでしまったら何か(肉体的、意識的に)残るのか? 果たしてまるっきりの「無」なのか? うーん謎です^^;

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