桓武天皇のお孫さんがなくなり、埋葬されました。
何を隠そう現代に書かれた胡散臭い書物には我が名字の祖は桓武平氏が起源とあります(笑)
確かめようがないのでハクをつけるのに〇〇天皇の子孫、奥州藤原氏の分家、などなど割とある話なので話半分以上嘘だと思っていいと思います
平氏の姫が無くなって塚が出来た。
更に時代が経ち、塚も平くなった。
この辺は平氏の塚が(墓)あったのさだから平塚村にするべよ!
その後、合併により、一番幅が利きそうな平塚村がその後の平塚市へなっていきます。
平家の墓は名前でわかっていましたが、土盛りが平らになったので更に平塚というのは知らなかった。
そして、そのお墓跡には私めは一度もお参りしてない・・・・(滝汗)
「われ桓武天皇の子孫としてこの国を統べ!平和のために邁進いたす!」なんて平成最後のほらを吹いても面白くないのでダブルで平な平塚と、平和に終わった平成(たいらになる?!)から令和への架け橋として小田原の片隅で携帯ラジオのコネクターをはんだ付けしてFヨコやラジオ日本を聞いております。
書いてしまったついでなので書いておきますが、古くは信長に逆らい、奈良のあたりで戦っていた地方豪族だったらしいです。
勿論時代を読めずに負けて東国へ逃げてきます。今でいう江戸を通り越し(戦国時代はただの湿地帯だったからね)福島の辺りに根付いたと言われます。
須賀川や郡山には割と多くある名字で祖父は三春のじゃじゃ馬と言われた祖母を奥さんに迎えて二番目の妻として三人の子供を授かります。(最初の奥さんとの間の子供さんは一人を除いて戦時中に亡くなっています)一応六人兄弟の五番目として生まれているのですが、上二人が亡くなっていたので実質四人兄弟の三番目として多感な青春時代を過ごそうという矢先、気性の荒かった祖母は出ていってしまいます(父が中学の時)ああいう時代の自称姫様ですからプライドはたかかったんでしょうね? 都から逃れて来たと言われる家系と、地元の豪族の夫婦ですからね?(まるでうちみたいだ) 父は両親が離婚して祖父が再婚した三番目(戸籍上の三番目)の母と馬が合わなくて茨城北部の家を飛び出します。
三鷹や都内の様々な土地で様々な仕事をしながらすぐ上の兄(ダンプ乗り)が車を整備していた工場で人手がいるという話を聞いて住み込みで就職します。
まあ、あとはそこで事務員をしていた母とね?(以下省略)
そういうわけで父は中卒です。
学歴がなくて苦労したので(自分も整備士二級を取る時に死ぬほど苦労した)自分の子供三人は最低でも高校は出す!と頑張りました。
僕が二十歳くらいの頃、ダンプ乗りのおじさんが川口のあたりの砂利搬出場で仕事中の事故で亡くなります。
父の兄弟は残りすぐ上の姉、父、妹の三人で家を継いでいれば父が家の嫡男でした。
でも、諸事情により、父は家を継がずに今の所に住み続けています。
最近、父は祖父の年齢よりも一日でも長生きして「俺は親父より長生きしたぞ!」とあの世で自慢するのが目標らしいです(笑)
何回かの帰郷でものすごい数の資格(多くは仕事で使う)を見せてもらいました。
そのうち仕事を辞めて畑でもやってのんびりと暮らしたいと言いますが、生きるために65を過ぎたばかりでもまだ仕事をしています。
そうか!平成が始まった時、36だったんだ?! わ、若いな(笑)
茨城に住んでるのが多い我が一族でしたけど、僕ら兄弟は南下して神奈川に拠点を移しています(弟は単身赴任)
別に京を目指しているわけではなく、寒いところが嫌いなだけです(弟はたまたま仕事で飛ばされた)
平成が終わろうとする今、僕自身はほぼ、何もなし得てないような気がします。
言ってみれば「平不成」
必死に学んだ学問と時の流れに身を任せて雲のように漂い、一応今の所にたどり着いて幸いにも子を授かることが出来ました。
僕ら三世代を野球に例えると僕は無難な中継ぎです。
貧乏から脱出して人並みの生活を得て、自分ができなかった(父が僕らに目指すことを期待した)様々なことができるように環境を整えるだけです(どこまでいっても事を成すのは子供ですので)
平成とともに引退するもの、止めてしまうお店などありますが、残念なことに僕はまだ引退できなそうです。
令和元年初日から相変わらず家のことをやったり、妻に愚痴をこぼしたり文句を言ったりしてることでしょう。
同じことの繰り返しになってしまいますが、我々の今があるのはそれぞれの家の先祖、祖先が頑張って行きてきたからこそです。
平成という30年をなんとか生きてこれたこと、その最後に人様の役に立つ奉仕が出来たこと(骨髄バンク)、健康に産んで育ててくれた両親や僕らを生かすために色々としてくださった先人達に感謝して平成最後の日記にしようと思います。
ま、令和元年初日は令和の文字が飛び交うので僕は令和以外の話を書こうかな?(笑)
何を隠そう現代に書かれた胡散臭い書物には我が名字の祖は桓武平氏が起源とあります(笑)
確かめようがないのでハクをつけるのに〇〇天皇の子孫、奥州藤原氏の分家、などなど割とある話なので話半分以上嘘だと思っていいと思います
平氏の姫が無くなって塚が出来た。
更に時代が経ち、塚も平くなった。
この辺は平氏の塚が(墓)あったのさだから平塚村にするべよ!
その後、合併により、一番幅が利きそうな平塚村がその後の平塚市へなっていきます。
平家の墓は名前でわかっていましたが、土盛りが平らになったので更に平塚というのは知らなかった。
そして、そのお墓跡には私めは一度もお参りしてない・・・・(滝汗)
「われ桓武天皇の子孫としてこの国を統べ!平和のために邁進いたす!」なんて平成最後のほらを吹いても面白くないのでダブルで平な平塚と、平和に終わった平成(たいらになる?!)から令和への架け橋として小田原の片隅で携帯ラジオのコネクターをはんだ付けしてFヨコやラジオ日本を聞いております。
書いてしまったついでなので書いておきますが、古くは信長に逆らい、奈良のあたりで戦っていた地方豪族だったらしいです。
勿論時代を読めずに負けて東国へ逃げてきます。今でいう江戸を通り越し(戦国時代はただの湿地帯だったからね)福島の辺りに根付いたと言われます。
須賀川や郡山には割と多くある名字で祖父は三春のじゃじゃ馬と言われた祖母を奥さんに迎えて二番目の妻として三人の子供を授かります。(最初の奥さんとの間の子供さんは一人を除いて戦時中に亡くなっています)一応六人兄弟の五番目として生まれているのですが、上二人が亡くなっていたので実質四人兄弟の三番目として多感な青春時代を過ごそうという矢先、気性の荒かった祖母は出ていってしまいます(父が中学の時)ああいう時代の自称姫様ですからプライドはたかかったんでしょうね? 都から逃れて来たと言われる家系と、地元の豪族の夫婦ですからね?(まるでうちみたいだ) 父は両親が離婚して祖父が再婚した三番目(戸籍上の三番目)の母と馬が合わなくて茨城北部の家を飛び出します。
三鷹や都内の様々な土地で様々な仕事をしながらすぐ上の兄(ダンプ乗り)が車を整備していた工場で人手がいるという話を聞いて住み込みで就職します。
まあ、あとはそこで事務員をしていた母とね?(以下省略)
そういうわけで父は中卒です。
学歴がなくて苦労したので(自分も整備士二級を取る時に死ぬほど苦労した)自分の子供三人は最低でも高校は出す!と頑張りました。
僕が二十歳くらいの頃、ダンプ乗りのおじさんが川口のあたりの砂利搬出場で仕事中の事故で亡くなります。
父の兄弟は残りすぐ上の姉、父、妹の三人で家を継いでいれば父が家の嫡男でした。
でも、諸事情により、父は家を継がずに今の所に住み続けています。
最近、父は祖父の年齢よりも一日でも長生きして「俺は親父より長生きしたぞ!」とあの世で自慢するのが目標らしいです(笑)
何回かの帰郷でものすごい数の資格(多くは仕事で使う)を見せてもらいました。
そのうち仕事を辞めて畑でもやってのんびりと暮らしたいと言いますが、生きるために65を過ぎたばかりでもまだ仕事をしています。
そうか!平成が始まった時、36だったんだ?! わ、若いな(笑)
茨城に住んでるのが多い我が一族でしたけど、僕ら兄弟は南下して神奈川に拠点を移しています(弟は単身赴任)
別に京を目指しているわけではなく、寒いところが嫌いなだけです(弟はたまたま仕事で飛ばされた)
平成が終わろうとする今、僕自身はほぼ、何もなし得てないような気がします。
言ってみれば「平不成」
必死に学んだ学問と時の流れに身を任せて雲のように漂い、一応今の所にたどり着いて幸いにも子を授かることが出来ました。
僕ら三世代を野球に例えると僕は無難な中継ぎです。
貧乏から脱出して人並みの生活を得て、自分ができなかった(父が僕らに目指すことを期待した)様々なことができるように環境を整えるだけです(どこまでいっても事を成すのは子供ですので)
平成とともに引退するもの、止めてしまうお店などありますが、残念なことに僕はまだ引退できなそうです。
令和元年初日から相変わらず家のことをやったり、妻に愚痴をこぼしたり文句を言ったりしてることでしょう。
同じことの繰り返しになってしまいますが、我々の今があるのはそれぞれの家の先祖、祖先が頑張って行きてきたからこそです。
平成という30年をなんとか生きてこれたこと、その最後に人様の役に立つ奉仕が出来たこと(骨髄バンク)、健康に産んで育ててくれた両親や僕らを生かすために色々としてくださった先人達に感謝して平成最後の日記にしようと思います。
ま、令和元年初日は令和の文字が飛び交うので僕は令和以外の話を書こうかな?(笑)
コメント
皆さん平成が幕を閉じる今日、様々な思いを馳せていらっしゃるんでしょうね。
人が生まれて死んでいく中でその一生は正にドラマティックです。ここだけの話、こんな日なのに岳父は調子を悪くして今、病院に向かっていきました(一時は救急車呼ぶか?と) 昭和一桁に生まれた岳父は今日、他界したら「令和を見れずに逝ってしまったね?」となるのですが、どうやら憎まれっ子夜にはばかるらしく、某映画のように「ダイ・ハード」です(笑) もう、ご自宅に戻られたでしょうか? お疲れ様でした。