高校一年の時に中学の同級生が交通事故で即死だったと当時の学校の担任づてに学級委員を通じて連絡が入った。

名前は書かない。

左利きで足が速く、鉄棒や跳び箱なんかが得意だった。

勉強は得意ではなく、家も僕の家と同じくらい貧乏だった。

高校には行かないで同級生とパチンコにチャリでニケツして出かけた帰りに後方から交通事故ですっ飛んできた車に跳ね飛ばされた。

後で聞いた話では当時の生徒会長の彼女のお父さんが事故の当事者だとかなんとか聞いた。

これが11月の末くらいだったと思う。

それから三ヶ月しないで同じクラスメイトだったもう一人の彼が(同じ高校に進学していたので中学、高校1年まで同じだったことになる)体育の授業でマラソン(学校の周りを走るやつ)で完走した直後心臓麻痺で倒れる。体育教官(なぜか体育だけ教官だったなあ)の年配の先生が心臓マッサージを試みるが搬送先の病院で死亡が確認される。絵が上手で似顔絵が得意だった。ゲームや漫画の好みも似ていて塾に一緒に行ったり、サボったり、酒飲んだりタバコ吸ったり、生きていたら彼はどんな人生を送ったのだろうか?と時々思う。

実家は真言宗で葬儀の形態にはなんだか不信感を抱いていた。

実は長男の彼が(弟が一人いる)死んでしまって、二十歳を過ぎた頃、お母さんからハガキや電話で話した後、いい話があるからとファミレスに呼ばれた。

宗教の話だった。

聞いたこともない宗教で悲しみに打ちひしがれるお母さんを当時の担任の先生が紹介したということらしい。

教義や理論はむちゃくちゃだけど息子が生きていたら息子に話をするのに、死んじゃったから仲良くしてくれたマサムネ君には幸せになってもらいたいというところだけは信用できた。

僕らの話は痛み分けに終わった。僕は最後に

「悲しみから立ち直ったのはお母さんの中にあった力です、きっかけはその宗教が与えてくれたかもしれませんが立ち上がったのはお母さん自身の力です。」とだけ行って立ち去った。

それから弟をパチンコ屋の新装開店やFB上で見かけるけど彼の一家とは音信不通。

三人目。

確かハタチ前後だ。

同級生のH本が作新大学に通っている頃だったから。

死んだ彼の訃報は彼からもたらされた。

実はHは最後に死んだ彼とあった同級生になった。

前向きに生きられないグチを普段通りマックか何かで聞いてあげた後数日後に彼は何の脈絡もなく(実はあったのだろう)渡良瀬川の河川敷にある水位計にロープを掛けて自ら命を断った。

2番目の彼と三番目の彼は高校の同級生ということになる。

三番目の彼は1年の時に英語選抜クラスに入るためにガムシャラに勉強して英語選抜クラスに入った。

けど、英語選抜クラスに入ったからモテルわけでもなく、他の非選抜クラス五クラスと待遇が違うわけでもなく、逆に俺は選抜クラス入りしたんだ!と自慢するような節があり、余り好かれなかった。

その上彼はアトピーという身体特徴からその名の通りの呼び方をされたりすることもあった。(そういう病名で呼んだ奴らはもちろん処罰なんかされない)

身体的特徴とだんだんネジ曲がってゆく性格が気持ちのデフレスパイラルみたいなものを産み、最後には生きていても仕方ないと結論づけたのだと思う。

僕が確かに確認しているのは三人。

小学校時代のクラスメイトが急性白血病にかかって他界したというのを男子で一人、女子で一人聞いているけど確認していない。

僕の生まれ育った場所の周りでは近所のおばあちゃんやらおじさんやら幼なじみのおばあちゃん、元商会長ジャガーノートの実母もまだ若くして病気で他界されてる。小田原に来てからも妻の祖父母、先日間質性肺炎で亡くなったおばさん、結構な数の方が他界された。

ここでは同級生と銘打っているので同級生の話に戻す。

ある程度年を重ねると(あと50年もすれば)またクラスメイトが旅だったか・・・・。なんてよく聞く話なのだと思う。

けど、16歳や20そこそこの僕はクラスメイト達の死は周りではよく聞く話ではなかった。

何も無ければ人は16歳や20歳で寿命が来たりしないのだから。

僕は自分がとっても大変なとき、辛い時、死んでしまった彼らのことを思い出す。

よく、死ぬほど辛い、死んだ気になって頑張れ、などと死を使って物事の大きさを表現したりする。(個人的にはよくないと思う)

死んだ人から見れば(見られるかどうかは永遠の謎だ)生きている事そのことだけで幸せで、「アンタは生きてるじゃねえか? 俺はもう死んじまったからその喜びも苦しみも悲しみも感じられねえよ」と言ってるかもしれない(だって確かめようがない)

死んだ人と比べれば僕は見事に二十歳を迎えることも、バイクの免許も自動車の免許も取得できた。市ヶ谷の大学に通えたし、神宮を彼女と散歩していたら若松監督を生で見ることもできた。 その彼女と些細な事で喧嘩して小田原から下道で帰る途中、外堀通りを本郷の方へ曲がった所、順大附属病院にものすごい車が停まっていて昼間のような明るさだったので家について彼女に「着いたよ」と電話したら当時の総理、小渕さんが倒れたのだという場面にも遭遇出来た。

伊豆でバーラウンジを運営することもできたし、数年のアルバイト下積みを経て郵便局員になることもできた(本務者) 苦労の間に向こうの両親に認めてもらって結婚もできたし、幸運な事に何の苦労もなしに子供を授かることができた。

大変なこともあったと思う。辛い時もあったと思う。けど、それは多分生きているからこそ感じられるものだと思うと死んじゃった人の無念さに比べたら僕らの大変さなんて小さいよね?と思う。

人は生きてるすべての人に思い出されなくなった時、忘れられてしまったとき、真の死を迎えるとどこかで読んだ気がする。

その理論で言えば彼らは生きている。

彼らの死はその力で今年二度目の成人式を迎えた僕の人生をさり気なく支えている。

彼らと僕が現世で酒を酌み交わすことはもう、無い。

そう感じるとちょっとだけ涙腺がゆるむ。

二番目に亡くなった彼の墓所だけは知っているのでたまに帰郷すると何はともあれ彼の墓前に線香を供えることを忘れない。

「そっちはどうだい? いつしか僕はもう40になろうとしているよ」
最後に墓参した時、そんな言葉を投げかけた。

僕もいつかは死ぬ。

死後の世界というものがあるなら16で他界した彼らと二十歳で他界した彼、41で死ぬかもしれないハゲたオッサンとこっちはいいとしても向こうは俺と気づくのだろうか?(笑)

万が一にも90歳ぐらいまで生きてヨボヨボの爺さんになって死んだら向こうは高校の同級生だと気づいてくれるのだろうか?(笑)

向こうの世界にもフォアローゼズ、ブラックとか上善如水とか真澄とかレモンハートデメララ151とかあるのだろうか?(真澄は飲んだことないです)

そんなことを書いていると「大丈夫、オマエはまだ死なない」と言ってる声がする気がする。

いつも最後には「僕はこんなにも幸せな人生を送っているじゃないか!」という一言が待っているのだ。

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