ちょうど20年前です。
2013年7月30日 時事ニュース19歳の夏。
その年のクリスマスイブに二十歳を迎えたら何か無くなる気がして
なけなしの貯金を持ち、テント、シュラフ、その他炊飯道具をバイクに積んで
バイトも「日本一周するので休みます!」といい家をでた。
地図もね書店で買った日本全図。
途中でボリボリになったのでどこかのキャンプ上で捨てたけど
初日北へ向かうのに「ばあちゃんたちの顔を見ていこう」と海岸沿いを選ぶ
「東海村」
日本一周これからしてくる!と息巻く血の繋がらない孫にケチなばあちゃんは
僕に出すのを見たことのない1万円札を出して「これ、もってけ!」とくれた。
(向こうで夕張メロン買って送りましたよ)
今流行の? 東海村原子力発電所のある久慈川河口付近で一泊しました。
(朝起きたら隣が墓場だったw)
国道を北上しメルトダウンした発電所の脇も通ったと思う。
松川浦の脇でセルフタイマーで撮った写真があるから。(フジ望遠カルディアスーパーデート)
二日目は花巻のキャンプ場で一泊。ここで旅の前半を共にする方と知り合い
随伴することにする。
四号線を青森まで。
其処からフェリーに乗って函館へ。
その日は大沼のキャンプ場で泊まる。
三日目、みんな道東周りをするのに僕らは気があって左側へ回ることに。
キャンプ場を探していたら木古内町の登山者向けに開放している自治会館が
無料でお借りできることに。酒のんで横になったらこれが罠だった。
真夏なのに「寒い!」テントとシュラフは寒くないのだけど屋根のある空間にゴロ寝は寒かった!
四日目
江刺の方へでて間欠泉を見た気がする。瀬棚町で同行者と別れて僕は長万部へ
抜ける。
洞爺湖、支笏湖を見てちょうど支笏湖の湖畔にあったキャンプ場で泊まる。
たしかこの辺りからツーリングマップルを買ってツアラーっぽくなってきた
気もする。ホワイトガソリン、かっぱも購入。
五日目 多分屈斜路湖、摩周湖(駐車場台が取られたw)を見て網走刑務所へ
服役(笑)
多分網走湖畔かどこかのキャンプ上に止まった気がする。
六日目 このあたりで前の日にお腹いっぱい食べるなら「じゃがいも亭」がいい
よ!とお風呂で一緒になったツアラーの人に教わる。 当時は500円でジャガイモ、牛乳、トウモロコシが食べ放題だった。といってもそんなにたくさん食べられない。実はここでは農作業を手伝うと日銭が稼げたけど僕は日本一周へでたのでこんな所で油を売ってられないと定住(笑)しなかった。
実はあとで気づくのだけどこのあと金の都合で日本一周出来ずに戻ることになる。20年たった今、あそこでジャガイモ掘りのバイトをして資金を調達してから出発していれば新潟くらいまでいけたかもしれない(汗)
そのあと、宗谷岬を周り、旭川でラーメンを食べて富良野で一泊。
キャンプ場の風呂の外はラベンダー畑だったらしいが、時既に遅く花は終わっていた。
最終日財布を開けて気づく。
カネがない!
フェリーで本州へ戻って下道でドンドコ帰っても何度か給油したら実家へ
戻れるかどうか?
富良野から函館へ、函館からフェリーで青森、夜更けの八甲田山を抜けて
確か昼過ぎに仙台。
最後の給油をして手持ちの金が300円ちょっと。
おにぎり2コパックを買って水飲んで我慢するか?
それとも・・・・・・・。
当時、カズがCMをしていたサントリーデカビタCを二本買って
「バモラー!」と叫んで
夜の9時前に古河の実家についた。
富良野からほぼノンストップ風呂も入らないのでかなり顔が煤けていたらしい
荷物にはホクレンの黄色い旗がたくさん刺さっていて徳用昆布が長いまま飛び出していて(ビニールには入ってるけど)どの荷物からも排気ガスの匂いで一杯のまま家に戻ると「まず、風呂に入れ!」と言われた。
旅の途中。僕は最年少だったと思う。
話しかけたりかけられたりするツアラーの人は皆年上で色々なことを教えてくれた。
住所を交換して旅の写真をやり取りしたり、年賀状を出しあったりした方もいた
僕が通った時原発は問題なく動いていたしまさかこんなことになるなって思わなかった。
今だに家に帰れない被災者の方々を思うと胸が痛む。
先日述べたように今回のことについての意見は山のようにある。
けどそれをここで言ってもネガキャンになるので言わない。
20年経つとじゃがいも亭は食べ放題を止め、災害で原発がとまり、メルトダウン
して、人が入れなくなり、廃墟と化す。
修善寺の独鈷の湯だって入れなくなった(笑)
時が過ぎて様々な物が少しずつ形を変えてゆくのだからやはり法律やその他の
システムもそれに合わせて変わるべきだと思う。
ここだけの本音だけど僕は誰かのために生きるのが好きだ。
自慢するわけじゃないけど何かの役に立つことが好きでボランティアや献血は
出来る限り協力している。
自分のために減量しようとは思わなかったけど太り過ぎで骨髄バンクへ登録でき
無いことを知った時、そして身近な人のお子さんがそれが必要かも知れないと
知った時、骨髄バンクへ登録できるように減量しようと頑張った。
三年くらいかけて25キロ近く減量して見事に骨髄バンクへ登録できた。
随分前に書いたものの中にこういう言葉があった。
「誰かのために生きること それが僕のいきがい」
20年経ってもブレない、色褪せない 変わらない。
その年のクリスマスイブに二十歳を迎えたら何か無くなる気がして
なけなしの貯金を持ち、テント、シュラフ、その他炊飯道具をバイクに積んで
バイトも「日本一周するので休みます!」といい家をでた。
地図もね書店で買った日本全図。
途中でボリボリになったのでどこかのキャンプ上で捨てたけど
初日北へ向かうのに「ばあちゃんたちの顔を見ていこう」と海岸沿いを選ぶ
「東海村」
日本一周これからしてくる!と息巻く血の繋がらない孫にケチなばあちゃんは
僕に出すのを見たことのない1万円札を出して「これ、もってけ!」とくれた。
(向こうで夕張メロン買って送りましたよ)
今流行の? 東海村原子力発電所のある久慈川河口付近で一泊しました。
(朝起きたら隣が墓場だったw)
国道を北上しメルトダウンした発電所の脇も通ったと思う。
松川浦の脇でセルフタイマーで撮った写真があるから。(フジ望遠カルディアスーパーデート)
二日目は花巻のキャンプ場で一泊。ここで旅の前半を共にする方と知り合い
随伴することにする。
四号線を青森まで。
其処からフェリーに乗って函館へ。
その日は大沼のキャンプ場で泊まる。
三日目、みんな道東周りをするのに僕らは気があって左側へ回ることに。
キャンプ場を探していたら木古内町の登山者向けに開放している自治会館が
無料でお借りできることに。酒のんで横になったらこれが罠だった。
真夏なのに「寒い!」テントとシュラフは寒くないのだけど屋根のある空間にゴロ寝は寒かった!
四日目
江刺の方へでて間欠泉を見た気がする。瀬棚町で同行者と別れて僕は長万部へ
抜ける。
洞爺湖、支笏湖を見てちょうど支笏湖の湖畔にあったキャンプ場で泊まる。
たしかこの辺りからツーリングマップルを買ってツアラーっぽくなってきた
気もする。ホワイトガソリン、かっぱも購入。
五日目 多分屈斜路湖、摩周湖(駐車場台が取られたw)を見て網走刑務所へ
服役(笑)
多分網走湖畔かどこかのキャンプ上に止まった気がする。
六日目 このあたりで前の日にお腹いっぱい食べるなら「じゃがいも亭」がいい
よ!とお風呂で一緒になったツアラーの人に教わる。 当時は500円でジャガイモ、牛乳、トウモロコシが食べ放題だった。といってもそんなにたくさん食べられない。実はここでは農作業を手伝うと日銭が稼げたけど僕は日本一周へでたのでこんな所で油を売ってられないと定住(笑)しなかった。
実はあとで気づくのだけどこのあと金の都合で日本一周出来ずに戻ることになる。20年たった今、あそこでジャガイモ掘りのバイトをして資金を調達してから出発していれば新潟くらいまでいけたかもしれない(汗)
そのあと、宗谷岬を周り、旭川でラーメンを食べて富良野で一泊。
キャンプ場の風呂の外はラベンダー畑だったらしいが、時既に遅く花は終わっていた。
最終日財布を開けて気づく。
カネがない!
フェリーで本州へ戻って下道でドンドコ帰っても何度か給油したら実家へ
戻れるかどうか?
富良野から函館へ、函館からフェリーで青森、夜更けの八甲田山を抜けて
確か昼過ぎに仙台。
最後の給油をして手持ちの金が300円ちょっと。
おにぎり2コパックを買って水飲んで我慢するか?
それとも・・・・・・・。
当時、カズがCMをしていたサントリーデカビタCを二本買って
「バモラー!」と叫んで
夜の9時前に古河の実家についた。
富良野からほぼノンストップ風呂も入らないのでかなり顔が煤けていたらしい
荷物にはホクレンの黄色い旗がたくさん刺さっていて徳用昆布が長いまま飛び出していて(ビニールには入ってるけど)どの荷物からも排気ガスの匂いで一杯のまま家に戻ると「まず、風呂に入れ!」と言われた。
旅の途中。僕は最年少だったと思う。
話しかけたりかけられたりするツアラーの人は皆年上で色々なことを教えてくれた。
住所を交換して旅の写真をやり取りしたり、年賀状を出しあったりした方もいた
僕が通った時原発は問題なく動いていたしまさかこんなことになるなって思わなかった。
今だに家に帰れない被災者の方々を思うと胸が痛む。
先日述べたように今回のことについての意見は山のようにある。
けどそれをここで言ってもネガキャンになるので言わない。
20年経つとじゃがいも亭は食べ放題を止め、災害で原発がとまり、メルトダウン
して、人が入れなくなり、廃墟と化す。
修善寺の独鈷の湯だって入れなくなった(笑)
時が過ぎて様々な物が少しずつ形を変えてゆくのだからやはり法律やその他の
システムもそれに合わせて変わるべきだと思う。
ここだけの本音だけど僕は誰かのために生きるのが好きだ。
自慢するわけじゃないけど何かの役に立つことが好きでボランティアや献血は
出来る限り協力している。
自分のために減量しようとは思わなかったけど太り過ぎで骨髄バンクへ登録でき
無いことを知った時、そして身近な人のお子さんがそれが必要かも知れないと
知った時、骨髄バンクへ登録できるように減量しようと頑張った。
三年くらいかけて25キロ近く減量して見事に骨髄バンクへ登録できた。
随分前に書いたものの中にこういう言葉があった。
「誰かのために生きること それが僕のいきがい」
20年経ってもブレない、色褪せない 変わらない。
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