昨日ニュースで原発に反対する人のデモをやったとニュースで知った。

時勢から言えば脱原発は当然であり、事故が起きれば土地そのものが使えなくなり

国土の狭い日本では致命傷でさえある。

各界の著名人が出てきて脱原発を叫ぶ。

デモ隊が通る。

表現の自由があり報道の自由もある。

例えば、我が家は今年エアコンを一度も使わず夏をすごした。

昨年比-29パーセントの使用電力である。もちろん川に挟まれた冷涼な土地柄も

あってだとおもうけど。電気はこまめに消すようになったし、洋装よりも風通しの

よい和装でもって猛暑を過ごした。計算上は30パーセント電力が減らされても

なんとかやれそうだ。だから30パーセント分原発に頼ってる分を廃炉しても

いいよ!と「僕が」言うのはいいと思う。

例えばだけど、あそこに集まった人たちは脱原発!と書いたおそろいのTシャツを

きて瓦礫処理や集中豪雨の被災者のボランティアをすることでも意見を言えなかっ

たのだろうか?と思う。

どんな状況下にある人がどのようにしてそこに集まり、どう努力して、どう結果を

出したから原発を止めてもいい!(止めろ!)というのはちっとも報道されない。

じゃあデモ隊の人がみんなそろってツイッターでささやきあってエアコンガンガン

に入れた部屋で涼んで被災者を見下す発言をしてたとしてもそういうのは一切

報道されないのか? 逆に自分の身だって明日どうなるか分からない人がデモに

加わり尊い力でもってデモに加わってもそういう部分は報道されない。

ノーベル賞をとったナンチャラという人はこの本の印税すべてを再利用可能エネル

ギー開発用に寄付しました(例)とか有名な音楽家は被災地へ10億円寄付しました

(例)なんてのがあったとしてもそういうのは報道されない。

必死に原発の中で作業に従事してる人やその家族、電気が使えないと仕事すらでき

なくなる産業に従事してる人の苦悩やその人たちの生活を支える術すら見えない

ままにデモだとか止めろとか言ってるのはやはり違うんじゃないかな?と思う。

まず復興。その中に雇用や災害に強い国づくりも練りこんで。

日本が国難に立ち向かってるとき、かの大陸のビッチな国は油田開発に対し牽制

したりしてる。北のほうのロのつく国だっていつ我々の領土を侵してくるかわから

ない。

「内憂外患」ってこういう状況ね。と思う。

でも、敵が弱ったところで相手をしとめるのは戦の定石だからね。威圧外交として

みればあの赤い国は立派にやってると思う。

そういう時にわれわれはナニをやってるんだ?と報道と一部の人々行動の在りかた

をみてふと、思った。

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